Saturday, July 31, 2010

神の家





科学世界は神へと向かう





“私確実にくの人々影響をえてしまっているため、ぜひともその甚大な悪影響修復したいとんでいる。”(アントニー・フルー)
最近の新聞紙面では、無神論を支持する著名な哲学者アントニー・フルーによる、後悔に満ちた言葉が話題を集めました。81歳の英国人で哲学教授でもあるフルーは、15歳の時に無神論者となる決意をし、1950年に発表した論文によって言論界に登場しました。その後54年 間に渡り、オックスフォード大学、アバディーン大学、キール大学、レディング大学の教授として、多くの米国やカナダの大学を訪問し、討論や著書、講義、記 事などで無神論を弁護してきました。しかしながら近年、フルーはこの過ちを放棄し、宇宙は創造されたものであると認めたのです。
この画期的な視点の変化における大きな要因は、創造という主題に関して科学が解明した、明確かつ決定的な証拠の発見です。フルーはこの複雑に入り込んだ情報化社会において、生命の真の起源とは知的設計(インテリジェント・デザイン)であり、彼が66年間に渡り信奉してきた無神論は信頼性のない哲学であることを確信したのです。
フルーはこの信条の変化について、以下のような言葉で科学的根拠を発表しました:
“生物学者たちによるDNAの研究により、生命を引き起こすために必要な信じ難い程の複雑な配列が解明されており、そこには何らかの知的存在の関与が必須なのである。[1]
“最初に生み出された生命体が、進化論に基づいたものであるという捉え方は、今や極めて困難なこととなった。”[2]
“私は命の無い物質から生物が進化し、極端に複雑な生命体に発達したことは不可能であると確信させられた。”[3]
フルーがそれを自分自身の見解の変更における根本的原因として言及しているように、DNA研究は創造に関する驚くべき事実を明らかにしています。DNAのらせん構造、そこに含まれる遺伝情報、そしてヌクレオチド分子は偶然性を排除し、百科事典的な情報量とその他多くの発見は、この分子の構造と役割が生命のために特別な設計により配置されたということを示しているのです。DNA研究に携わる科学者たちによるコメントは、その事実を証言します。
DNAのらせん構造を発見した科学者の一人であるフランシス・クリックは、その発見の際、生命の起源が奇跡を示唆していることを認めました:
我々に得ることの出来る知識の全てを活用する誠実な者は、生命の起源はほぼ奇跡に近く、多くの条件を満たされた上で生かされているのであると述べざるを得ないのである。[4]
ロサンゼルスにある南カルフォルニア大学のレド・アドルマン氏の計算によると、1グラムDNAは、コンパクト・ディスク一兆枚分[5]の情報を記憶することが出来ると述べられています。ヒトゲノム計画に参加した科学者の一人であるジーン・マイヤース氏は、その奇跡的な配置を証言した上で、次のように述べています:
“私を最も驚愕させるものは、生命の建築様式である・・・このシステムの複雑さは驚異的である。それはあたかも設計されているかのようである・・・そこには大いなる知性が見て取れるの。”[6]
DNAに関する最も驚嘆すべき事実とは、遺伝暗号情報の存在が物質・エネルギー的観点、また自然法からも説明のつかないことです。ドイツ連邦工科大学の教授を務めるヴェルナー・ギット博士はこれに関し、こう語っています:
“暗号システムというものは、常に知的工程の結 果もたらされるものである・・・物質はいかなる暗号をも生成することは出来ないことを強調されなければならない。あらゆる状況は、自らの自由意志、認識 力、創造性を活用する、思考する存在が必要でなければならないことを示している・・・物質が情報を持つようになるという現象は自然法に当てはまらず、また そのような物理的過程や物質的現象も確認されてはいない。”[7]
創造論を支持する科学者・哲学者たちによる主張、そして上記のような発見は、フルーの創造論への転換に大きな役割を果たしました。近年、フルーは創造論を支持する科学者・哲学者たちとの討論に参加して認識のやり取りをしました。その行程における最後の転機は、2003年5月にテキサスの形而上学研究所によって催された討論会でした。フルー教授は作家のロイ・アブラハム・ヴァルギース、そして物理学者・分子生物学者のジェラルド・シュレーダーと共に討論に参加しました。フルーは創造論側の科学的根拠の荘重さに関心し、相手の説得力ある議論にも感銘を受けたため、それをきっかけとして無神論を破棄しています。英国の雑誌 Philosophy Now 2003年8月―9月号に投稿した文章で、彼はシュレーダーの本“The Hidden Face of God: Science Reveals the Ultimate Truth” とヴァルギースの本“The Wonderful World.”を推奨しました。[8]また彼の信条を変化させる大きなきっかけを与えた一人である哲学・神学教授のゲイリー・R・ハーバーマス[9]とのインタビューにおいて、また “Has Science Discovered God?” というビデオの中で、彼は知的創造を信じていることを公に認めたのです。 

“宇宙に浸透する知能”と無神論の崩壊

上記のような科学的進展、また無神論を長年に渡り擁護し続けて来たアントニー・フルーによる知的設計論の容認は、無神論の崩壊が最終段階に入っていることを反映されています。近代科学は“宇宙に浸透する知能”の存在を明らかにすることにより、無神論を方程式の中から取り除いたのです。
その著書“The Hidden Face of God”ので、フルーに影響を与えた創造論支持の科学者であるジェラルド・シュレーダーはこう記しています:
絶対的知能を持つ唯一の者、すわなち普遍的英知は全宇宙に浸透しているのである。素粒子研究における科学の発見は、我々を驚くべき認識の瀬戸際へと突き動かした。ての存在はこの英知による表現であるということである。我々は研究室ので、それがまず物理的にはっきりとしたエネルギーとして存在し、そして凝縮して物質を形成する情報として経験する。核から人間にいたるまでのあらゆる粒子、あらゆる存在は、英知による特定の情報を象徴しているかのようである。[10]
細胞働きと物質の素粒子双方における科学的研究は、この事実を議論の余地のないものとして明確にしましたつまり生命と宇宙は、至高の知性と英知を有する者の意志によって無から創造されたのです。あらゆるレベルにおいて宇宙を設計したその知識の所有者とは、全能なる神であることに疑いはありません。神はこの真実を、クルアーンのの多く節々で明らかにしているのです。

★ by : islamreligion★ 

なぜムスリムは断食するのか?




減 量に励んだことのある私たちの多くは、果物や水、砂糖の減食など、ある種の断食を経験したことがあるでしょう。しかし多くの人々が非常に奇妙で興味深く思 うのは、ある国家全体の人々-男性も女性も、老いも若きも、金持ちも貧乏も-が明け方から日没まで完全に、食べ物と飲み物なしで丸一か月―ラマダーン月- を過ごすことでしょう。時には勤務時間の短縮をも伴う、ラマダーン月の重要性とは何でしょうか?それは大変厳しいものではないでしょうか?またそれはただ 単にムスリムが日中に眠りながら断食しつつ少しだけ働き、そして一晩中起きて食べ、飲み、楽しむ時のことでしょうか?ラマダーン月の精神とは本当は何で しょうか?

全ての宗教における断食の規定

英語において“断食”とは神聖な日のしきたりとして、また悲しみ、悲嘆、悔恨の象徴として、食べ物またはある種の食べ物を自発的に断つという意味です。これは世界のほとんどの主な宗教に見られます。例えばヒンズー教では、断食をサンスクリット語でウパバーサと呼びます。熱心なヒンズー教徒は特別な時に、彼らの個人的な神々への敬意のしるし、または彼らの苦行の一つとして断食を行います。また多くの熱心なインド人はしばしば断食を、祭りなどの特別な時に行います。そのような日に彼らは、全く食事をしなかったり、あるいは1度だけ果物やシンプルな特別食をとったりします。またユダヤ教徒たちにとって、ヨムキプール(贖罪の日」)は悔恨の10日間の最後でティシュリ月の10日目に行われます。その日は食べること、飲むこと、洗うこと、皮を着ることまたは性的関係を持つことなどが禁止されます。更には安息日のように、労働も禁止されます。また、モーセ(彼に平安あれ)が断食したことも、旧約聖書には記されています。
“モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。(出エジプト記34:28)
キリスト教徒のカトリックに関しては四旬節が断食の主な時期で、それはイエス(彼に平安あれ)の40日の断食に倣ったものです。また紀元4世紀にはイースター、あるいは聖週間前の6週間に渡って断食が行われていたものでした。そして7世紀においては、大方の地域で40日間の実質的な断食が適用されました。またイエス(彼に平安あれ)は福音書において、モーゼのように断食したことが記録されています。
“そして彼は40日と40夜断食し、それゆえ彼は空腹だった。” (マタイ4:2 & ルーク 4:2)
そしてクルアーンの次の節は、実にこの件に関して述べられています:
“ 信仰する者たちよ、お前たちには斎戒(断食)が書き定められた、ちょうどお前たち以前の者に課されたように。きっとお前たちは畏れ身を守ろう。(クルアーン2:183

最も徳の高い行いの一つ

多くの宗教において断食は罪の償い、または罪滅 ぼしのためとされますが、イスラームではまず上記の節に述べられた通り、神に近付くために行われます。そして神を意識することは有徳において欠かさざるを 得ないものですから、イスラームでは断食に大変な重要性が置かれています。ゆえに以下のように、預言者ムハンマド(神のご慈悲とご加護がありますように) が尋ねられた時の答えを知ることは驚くべきことではありません。
“何が最善の行いですか?彼は答えました:断食に相当するものはありません。 (アン=ナサーイーの伝承)
一方で、人間に様々な個性があるように、断食にも様々な段階があります。そもそも正しい断食は神によって意図された効果があるゆえ、人間の存在のあらゆる側面を網羅するべきものです。以下は断食のいくつかの主な段階です。

断食の段階

儀礼的段階

断食のこの段階では毎年、夜明けから日没まで29日または30日 間食べ物、飲み物、性交渉を避けるという断食の基本的ルールが満たされていなければなりません。この段階では、基本的には断食の精神は特に考慮されておら ず、文字通り法に従って断食するだけです。これは断食がイスラーム的に正確であるために満たすべき最初の段階ですが、断食をしている人に本当の効果を与え るためには、別の段階が断食に付け加えられなければなりません。そしてもし、人が単なる習慣によるのではなく、神の命令に対する服従の見地から宗教儀礼を 意識して断食を行うのでなければ、この段階に留まった断食には精神的利益はありません。それゆえこのような儀礼的段階における断食によっては、罪の購いま たは罪を浄化するという効果を得ることはありません。

肉体的段階

断食における“肉体的”段階では、預言者の「スンナ」に従った断食を行うにあたり、断食する者に飢えと渇きの苦痛を経験させます。預言者ムハンマドは胃をそれでもって完全に満たすことを回避しつつ、夜明け前に軽い食事(スフール)と、日没時に断食を解く適切な食事(イフタール)を摂りました。彼がこのように言ったことが報告されています。
“人間の満たすことの出来る一番悪い 入れ物は、彼の胃です。人の背筋をまっすぐに保つためには少量の食事で十分です。しかしながら、もし彼の欲望が彼にうち勝つのなら、胃の容量の三割を食べ 物に、そして別の三割を飲み物に、そして残りの三割は息をするために残しておきなさい。 (イブン・マージャによる伝承)
預言者は日没の礼拝が始まる前に数個の新鮮な、または乾燥したナツメヤシの実と、一杯の水で断食を解かれました。この段階は断食している人に飢えや乾きの苦しみを経験することを助け、そしてそこから世界中の飢えや乾きに苦しむ人々への同情心が養われるのです。

医学的利益

肉体的段階においては、断食によって神経伝達物 質と呼ばれる脳の感情を作り伝達するある物質が刺激されます。断食は満足感や幸福感と関係している鎮痛効果のある神経物質伝達システムを促進し、より多く の鎮痛物質を作り出すため、事実私たちを良い“気分”にさせるのです。これは運動(肉体的動作は伴ってはいませんが)の効果と似ています。また医学専門家によって、断食はあらゆる面で肉体的健康を改善すると言われて来ました。例えば断食中において肉体は、血液循環系や体の脂肪の多い部位にしばしば蓄えられるコレステロール(脂肪)を 消費させます。こうして引き締まった体を保ち、心臓発作の危険を最小限にする助けを担うのです。一番目の儀礼的段階と二番目の肉体的段階の違いの一つとし て、儀礼的断食のみを行っている人は、断食を始める前と断食を終えてすぐに沢山の食事を摂取するということが挙げられます。こうして彼は一か月の間を通 し、飢えや乾きを感じることがないのです。しかしながら、もし断食をする者が断食の他の段階を合わせて行わなければ、断食は単に肉体的疲労となるだけで しょう。預言者はこう言われました:
by : islamreligion

イスラームにおける幸福




幸 福は恐らく人生において最も重要な物事の一つ
であるにも関わらず、科学はまだそのことについて十分な説明を施せてはいません。幸福の概念自体、捉えどころ のないものです。一体それは観念なのでしょうか?それとも感情、美徳、哲学、理念、あるいは単に遺伝子上にプログラムされたものなのでしょうか?そこにお いてまだ一致した定義はなく、今日に至ってはあらゆる人々ドラッグの売人から、薬品会社、ハリウッド、玩具会社、独り善がりの指導者たち、そして「地上における最も愉快な場所の創作者」であるディズニーに至るまでが 幸福を売り回っているかのような感を受けます。果たして幸福とはお金で買えるものなのでしょうか?幸福とは快楽の増大や名声、富や遊行尽くしの人生によっ て達成出来るものなのでしょうか?この一連の記事では、西洋思想における幸福の変遷を簡潔に探索し、その後に西欧における現代文化理解を紹介したいと思い ます。そして最後に、イスラームにおける幸福の意味と、そこに到達するためのいくつかの手段について議論していきましょう。

西欧思想における幸福の変遷

キリスト教思想における幸福は、イエスの以下の言葉にその基礎を見出すことが出来ます。
…このように、あなた方にも今は不安がある。しかし、私は再びあなた方と会うであろう。そして、あなた方の心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなた方から取り去る者はいない。」(ヨハネによる福音書 16:22
キリスト教思想における幸福は何世紀にも渡って進展してきた一方、依然原罪論のままであり続けました。原罪論とは、聖オーガスティンが「神の都」で説明しているように、アダムとイブがエデンので最初犯したゆえに、「真幸福は現世において到達不可能である[1] という思想です。
しかし1776年、 トーマス・ジェファーソンはヨーロッパとアメリカにおけるこの主題に関して一世紀にも渡って交わされ続けてきた議論を要約し、「幸福の追求」を「自明の真 理」としました。それまでにも、いわゆる「幸福とは何か?」という主張が何度も大胆に宣言されてきたため、多くの人々はそこにおいて何の証拠も必要ないも のだと信じてきました。ジェファーソンが言った通り、それは自明のものだったのです。「最大多数の最大幸福」を保証することが、その世紀の倫理的必須項目 となりました。しかし幸福の追求はいかに「自明」であったのでしょうか?  幸福は実際のところ、私たち が自然に意図する目的なのでしょうか?キリスト教徒らは、人間が地上での長旅において幸福を追求してきたことを告白しましたが、その達成に関しては懐疑的 なままでした。それどころかジェファーソン自身、この探求が満足の行く結果に辿り着くかどうかに関して、悲観的でした。彼は1763年に書いた書簡の中で、具体的にこう述べています:「完璧な幸福それは一度として、神の一被造物の運命となるべく、神によって望まれたことはなかった。」更には、冷静にこう付け加えてさえいるのです:「最も恵まれている人々でさえ、人生の長い旅路においては度々災難や不幸に遭遇し、ひどく苛まされるものである。[2] そしてこれらのことにして「私たちの精神を強化する」ことこそが、「私たちの人生における主要学習と努力の一つとなるべきである」と結論付けているのです。
5世紀にボエティウスは「神はそれ自体幸福である[3] 主張しましたが、この公式は、19世紀半ばまでには「幸福とは神である」と逆転されて読まれるようになってしまいました。地上における幸福は偶像のまた偶像として、また近代的生活の中心的意味合いと人間の熱望の源泉として、そして「なぜ、何のために」という存在理由として出現しました。もしフロイトのうように、幸福「創造の計画の内[4] なかったとすれば、創造主の手仕事民主主義および自由市場経済(物質主義)として製造し、消費し、そして輸出することによって変換し代用する準備が出来ていることになります。哲学者パスカル・ブルックナーは、こう述べました:「幸福は、私たちの現代民主主義における唯一の限界である。」宗教の代替物として、唯物論〔物質主義〕が神をショッピングモールに移転したのです。

西欧文化における幸福

私たちの文化では一般的に、人が金持ちになったり、権力を得たり、有名になったりした時に幸福になると信じられています。若者は人気アイドルになりたがり、老人は宝くじによる一攫千金を夢見ているのです。またしばしば私たちは、全てのストレスや悲しみ、苛立ちなどを解消することによって幸福になろうとします。またある者にとっての幸福は、気分転換による癒しの中にあったりもします。歴史家のエヴァ・モスコヴィッツは、治療法の絶対的真理に対するアメリカの執着心について、いくつかの見解を示しています:「今日、この執着心は留まることを知らない・・・アメリカには(異なる種類の)12ステップのプログラムが、260以上もあるのだ。」[5]
たちが幸福を達成するにあたり、これほどの困難を見出している一つの理由は、私たちがそれについて知らないということでしょう従って、私たちは人生において惨めな判断を下すことになるのです。あるイスラームの説話は、幸福と判断の関係をこう描写しています:
熱心な生徒が言った:「偉大な賢者ナスルッディーンよ、
私はあなたにとても重要な質問をしなければなりません。
それは私たちが皆探求していることへの回答です:
幸福を勝ち取る秘訣とは何ですか?」

ナスルッディーンは暫く考えてから、こう答えた:
「幸福の秘訣は、よき判断である。」

生徒は言った:「やはり。
しかし、いかにしてよき判断を得ることが出来るでしょうか?」

ナスルッディーンは言った:「経験からである。」
生徒は言った:「ええ。
しかし、いかにして経験を得ることが出来るでしょうか?」

「悪い判断によってである。」

私たちの良い判断における一つの例は、唯物論的 な慰安自体が永続的な幸福をもたらさないということを知ることです。私たちの良い判断によってその結論に到達した後、私たちは自分たちの慰安へ退くことは ないのです。私たちは、到達不可能な場所にありそうな幸福を熱望し続けています。私たちは、それが幸福への手段であると考えてより多くのお金を作ろうと し、その過程において家族をおろそかにします。そして私たちが夢見る大きいイベントのほとんどは、私たちが期待したものよりもずっと儚い幸福しかもたらさ ないものなのです。しかも、それを得るために期待したかあるいは夢見たより少しの幸福しか得られなかったことに加え、私たちはしばしば自分自身が一体具体 的に何を欲していて、何が私たちを幸福にしてくれ、そしてそれをいかにして手に入れるかを知りません。私たちは判断を誤っているのです。
永遠の幸福というものは、「何かを獲得する」と いうことからは生じません。指を鳴らすだけで、あなたに名声や幸運、余暇をあげることが出来る人を思い浮かべてみて下さい。あなたは幸福でしょうか?あな たはもしかすると幸福感を味わうかもしれませんが、それも短時間の間だけです。徐々にあなたは新しい状況に順応して、人生は通常の感情的混合体へと戻って しまいます。大きな宝くじに当たった者が、その数ヶ月後には常人より幸福ではない状態になってしまう、という調査結果もあるのです!喜びを取り戻すために、人はより高い水準が必要となります。
同様に、私たちがどれほど「獲得した」かを考えてみて下さい。1957年当時、私たち1人あたりの収入は今日のドルに換算すれば、8,000ドル以下でした。今日の収入は16,000ドルです。収入が倍になったことで、私たちは今や1人あたり2台の車を始め、(当時と比較して)お金で買うことが出来る物質的商品の倍相当を所有しています。私たちは同様に電子レンジ、カラーテレビ、ビデオデッキ、留守番電話を持っていますし、またブランドのスニーカー業界に年間120億ドルもの貢献をしているのです。
しかし私たちは、以前より幸せになったでしょうか?なっていません。1957には、アメリカの35%が国立世論研究所対し「非常に幸」であるとったのに対、1991年にそうえたのは31%に過ぎませんでした[6] その間、不況率は上昇していたのです。
by : islamreligion

Friday, July 2, 2010

listen to Quran // コーランに耳を傾ける ^^